番外編:22年ぶりの村落議会が開かれるまで
現在は、ネパール連邦民主共和国の名の通り、民主制を謳うネパールですが、1951年から2008年までは国王を中心とした政治体制がしかれていました(立憲君主制)。時の知識層は、地方自治や国政への民衆参加を求め、複数政党制による議会制民主主義の実現を目指したのですが、当時の王政政府と対立。激しい弾圧を加えられ、多くの知識者が投獄・迫害されました。以来、1990年まで、一切の政党活動を禁止した国王の独裁体制が続きます。
なお、その当時の地方行政は、「パンチャーヤト制度」という、国王の監視の下で選ばれた、市・村の代表者が政権を握っており、いわゆる普通の市民・村人の意思が政策に反映されることはありませんでした。
1990年。王政を倒すべく水面下で策を練ってきた知識層は、政党派閥を超え共闘します。彼らの非武装の戦いは一般市民にまで広がり、銃を向ける王政府軍に対し投石で対抗しました。2ヶ月にわたる戦いを経て、多くの犠牲の上、ついに時のビレンドラ国王が、民主主義の基盤となる複数政党制の施行とパンチャーヤト制度の廃止を約束しました。
1991年には総選挙が開かれ、最大議席を得た政党(国民会議派)の党首が内閣首相に任命されました。地方自治体レベルでは、行政市・村が再編された後、各市・村ごとに「開発委員会」が設置され、その首長と代表者が一般住民から選ばれ、ようやく、人々が自分たちのまちづくり、村づくりに参加できる体制が整っていくかと思われました。
しかし、国王は依然として国の元首として、かつ軍の最高指揮官として存在し、このことがネパールの民主化プロセスを大きく遅らせることになったのです。
1996年に開催された第2回目の全国地方選挙に不正が相次いだとされ、翌97年に国王が再選挙を実施しました。が、その後、各自治体の首長や代表者が選ばれることはありませんでした。その頃のネパールでは、共産党毛沢東主義を掲げる反政府勢力(マオイスト)が武力闘争を始めており、以降10年間、人々は内戦状態の中、戦火におびえる生活を強いられることになったのです。
10年にわたる内戦によって、反政府武装勢力(マオイスト)は国土の8割を制圧したと言われています。武装勢力、王政府軍、そして一般市民において1万3000人の犠牲者を出した内戦は、2006年11月、政府とマオイストが「包括的和平合意」を締結したことにより終結します。
2008年5月28日、正式に連邦民主共和制への移行を宣言し、240年続いたネパール王国はその歴史に幕を閉じました。民主国家として新たな国づくりに動き始めたネパールですが、政党・派閥間の闘争、民主憲法制定の遅れなどにより、不安定な政情が続いています。それを象徴するかのように首相は度々変わり、現在の首相は王政廃止以降11人目です。
また、それに追い打ちをかけるかのように、2015年4月の大地震が国に甚大な被害を及ぼしました。さらに、2015年9月から2016年2月にかけて、ネパール政府が発行した民主憲法に反対する勢力がインドとの国境を封鎖し物流が途絶える事態も発生しました。
中央政府が指揮する政策は遅々として進まず、生活の危機に瀕している国民の不満は増す一方でした。
現憲法では、地方分権化を推進するべく「州制」を導入する他、基礎自治単位である行政地区にかなりの予算執行権を移譲するなど、民衆の側にある政治を目指しています。村の人たちが作りたい村の将来に向けて、住民と行政、また私たちNGOも連携して、前に進んでいければいいな、と思っています。