30年前にNGOで食っていけるの?と言われた私がいま振り返る「就職先としてのNGO」
海外事業運営本部長の白幡利雄です。「未来をつくる夏募金2021」キャンペーン特別連載ブログとして、4回シリーズでお届けする私のひとりごと。
1回目のテーマは、友人知人はもちろん、家族親戚一同から「食っていけるのか?」と心配されながらも、約30年間NGOで働き続けている私からみた、「就職先としてのNGO」の変遷です。
私がNGOの専従スタッフになったのは1993年の春。すでにバブル経済はしぼんでいたものの、まだまだその残り香がそこかしこに漂っていた時期で、大学院の修士課程を終えたばかりの私が「NGOに就職することにしたんだ」というと、友人の誰もが「大丈夫?」「食っていけるの?」と、眉をひそめながら心配してくれる状況でした。そもそも「NGO」という言葉の意味から説明をしなければならず、就職先としての認知度はほぼゼロだったと言えるでしょう。
NGOはもちろんのこと、国際協力という言葉すら一般にはまだまだ浸透していない頃のことです。いわゆるNPO法(特定非営利活動促進法, 1998年成立)もできておらず、ほとんどの団体が単なる任意団体として活動していたため、事務所があっても、その契約は電話から何から、すべて代表者の個人名義にせざるを得なかった時代。案の定、親からは「有名でなくてもいいから、会社と呼べるところに就職してくれ。早まるな(泣)」と懇願されてしまいました…。
確かに給与は少なく、将来の保障も何もありませんでしたが、自分が何のため、誰のために働いているのかが明確で、仕事は常にやりがいに満ちていました。たまに親戚に会うと「いつまで遊んでるの? 早く就職して親を安心させてあげないと!」などと声をかけられてしまう状態はしばらく続きましたが、2000年代に入る頃を境に、NGOを普通の就職先、あるいは転職先と考えてくれる人が徐々に増えてきました。日本社会が長い就職氷河期にあったことも影響していたのでしょう。
とはいえ、安定した職場だと胸を張って言えるような状況からは依然として遠いままで、多くのスタッフが3年から5年ほど勤めては退職を余儀なくされていたというのが現実でした。職歴が10年を超えると、某経済団体の名称をもじって「1%クラブへようこそ」と言われるほど(本当の話!)、長く勤務する例はまだ珍しかったのです。
そうこうしているうちに時代はさらに進み、早ければ小学生の頃からキャリア教育を受けてきた世代が社会に出てくるようになった現在。NGOでの人材募集はさらに難しくなってきたように感じます。
就職先としてのNGOは避け、「きちんと食える」職を確保した上で、アフターファイブや週末にボランティアスタッフとして関わるという選択をする人が多くなってきましたし、自分のやりたいことをストレートに実現したいと考え、自ら団体を立ち上げたり、個人で活動をしたりといった例も以前より目立つようになりました。「ソーシャルビジネス」を標ぼうし、初めから会社組織として活動する人も増えました。国際協力に携わる選択肢が多くなった一方で、就職先としてのNGOの位置づけが相対的に下がってきてしまった、ということなのかもしれません。その一方で、NGOスタッフを10年、人によっては20年以上にわたって続けているという例が、珍しくなくなってきたのも事実です。
ではなぜ、今でもNGOでは食えない(=十分な収入が得られない)と思われているのでしょうか?
次回、この謎に迫ってみたいと思います。(つづき、第2回「怪しい存在と思われがちなNGO業界の私たちが、つい忖度してしまうアレについての一考察」はこちらから)
白幡利雄(しらはたとしお)
海外事業運営本部 本部長
学生時代に手話を学んだこと、NGOの存在を知ったことをきっかけに、世界をより良く変えることを一生の仕事にしたいと決意。教育学修士号取得後、日本の国際協力NGOに就職。約21年間、東京事務所で海外事業全体のコーディネーションを担当した他、バングラデシュとネパールに事務所長として駐在。2014年にAMDA-MINDS入職。2020年から現職。趣味は読書と映画鑑賞。岡山のお気に入りスポットは西川緑道公園。東京都出身。