理事長ブログ「うみがめ便り~ 30年の時を超えて」
このところ、うみがめ便りはカンボジア便りになってしまった感が強い。それは、時空を行き来することをお許し頂けるのであれば、30年前の体験が私の自己形成に影響を与えた事実をお伝えしたいと考えたからだ。
還暦を迎える歳になって、何が自己形成だと笑われるかも知れないが、失笑を買ってでも文字にしたいと思う、強烈かつ学びの多い経験だった。ただ、私的な過去のことであり、現在当法人がプロジェクトを実施していない国のことを記し続けることにも引け目を感じていた。それ故今回で最後としたい。またあの時、カンボジアで仕事をしていなければ、貴重な再会も、思い出話も存在しなかったことは確かである。
さて、内戦終結後のカンボジアに平和をもたらした最大の要因は、間違いなく、1991年に締結されたパリ和平協定の存在と、その内容を具現化するためのUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)による介入だった。当時は東西冷戦の終結直後であったため、地域紛争を解決する国連の積極的な役割、介入効果に幻想を抱くことが許された。そしてカンボジアにおけるミッションは、隣国による核心的利益の主張やその他の阻害要因が顕著ではなかったこともあり、史上まれにみる成功例の一つになったと言える。
その後、カンボジアの経済発展と市民生活を豊かにしたものは、同国政府、国民の努力に加え、ASEAN(東南アジア諸国連合)という地域協力の枠組み、中国や韓国を軸とする海外からの直接投資や、インフラ、観光資源の開発に寄与する国際協力、NGO等の市民組織による民生支援であり、自助、公助、互助、共助が円滑にかみ合い、数多くの幸運に恵まれた結果であると言える。
他方、一党独裁が長く続き、民主的な政治、自由と人権、社会の公正性などを保守する機能が失われている状況はいかなるめぐり合わせか、人々の心情を察するに余りある状況とも言える。(現時点の雲行きは極めて怪しいが)2023年7月に実施される総選挙が、こうした社会矛盾を緩和する契機になって欲しいと切に願う。
さて、ここからは私自身の話に戻りたい。
2023年4月8日、私は、羽田を発つ夜行便に搭乗し、バンコクで早朝便に乗継ぎ、プノンペン国際空港に降り立った。その後市内へ向かい、昼前に待ち合わせをしていた(邦人でありながら、カンボジア司法省で法律顧問に任命されている)友人の坂野一生氏と一緒に、慰霊碑へ向かった。そう、その日は特別な日、故中田厚仁氏の没後30周年の命日であった。
同日の午前中、在カンボジア日本国大使が同じ場所を訪れていて、大きな花束が一つ置かれていた。そう、彼は死後、日本政府の後押しにより、日本発国際貢献の象徴(殉教者)としての役割を果たしてきたと言っても過言ではない。
他方、彼の死は、父親である故武仁氏のご尽力により、途上国支援の道を目指す若者に国際貢献の尊さと国連ボランティアの意義を分かりやすく伝承するための聖書となった。生きていれば成し遂げたであろう国際社会への貢献を想像し、改めて彼の死を無念に思う。
彼ほど有能ではなかったにしても、30年前、私は彼と同じ目的でカンボジアに渡航し、他の400名以上の同僚とともに同じ活動に従事した。1993年の4月の空気は、我々を等しく危険な状況に追い込み、不幸にも運命の矢が彼と同僚(通訳者)の命を奪ってしまった。彼の死は業務中のものであり、防ぐ手段があったとは思うが、十分な安全対策を講じることができなかったUNTACの資源もまた尽きかけていたと推察する。
彼の非業の死は、私を含む多くの同僚のその後の人生に影響を与えた。彼の死後30年、私は開発協力、人道支援という分野を学び、またその仕事に就いてきた。慰霊碑に向かい、目を閉じ、手を合わせながら、その選択に誤りはなかったか、十分やれているか、問いかけてみた。答えが返ってくるはずはなかった。ただ、周囲の空間は独立しており、カンボジアの4月の暑い日差しが、私と友人に照り付けていた。
坂野氏と私は中田氏に別れを告げ、僅かな時間、ともに昼食をとりながら思い出と近況を語りあった。彼は午前中、同国日本人会の補習授業校における入学式に参加し、午後は翌晩開催されるコンサートでピアノを担当するため、他のメンバーとの練習に向かった。本当に忙しい4月8日だったようで、お付き合い頂きとても感謝している。私はコンサート会場での再会を約し、次の目的地に向かった。
その場所は空港近くの寺院にあった。再度空港へ戻る道のりではあったが、岡山在住が長くなった私にとって、訪問しなければならない大切な場所だった。岡山で高田晴行警視の名前を知らない人はいない。そう、33歳の若さで殉職された彼の慰霊碑もプノンペンにある。
中田氏の他界から約一か月後の5月4日、オランダ軍の護衛を受けて移動していた高田警視を含む邦人警察官チームの車両は、ポルポト派と思われる武装集団による待ち伏せ攻撃を受けた。UNTACにおいて彼らは文民警察官と呼ばれ、私が担当した郡にも、常時3か国から総勢15名程度の文民警察官が派遣されていたが、母国における任務と異なり、拳銃を含む武器の携行は許されていなかった。総選挙を直前に控えた4~5月は、平時と戦時との境界線が一瞬で入れ替わる、つまり有事がいつでも起こり得る状況の中、文民警察官は、素手で治安維持にあたっていた。その時の襲撃では、ロケット弾と自動小銃が使用され、なすすべがなかったと思われる。
4月10日、プノンペンから車で約3時間、コンポントム州プラサートサンボ―郡を坂野氏、そしてシェムリアップから駆けつけて下さった川口領事事務所長と訪問した。そこには、中田厚仁氏が凶弾に倒れた場所に建てられた「アツ・スクール(小中学校併設)」があり、正門脇に慰霊碑がある。お花を供え、手を合わせた。
近代化したプノンペンとは異なり、田園地帯が広がる周囲の風景は、30年前の記憶を呼び起こした。その記憶と真実の伝承、今後の自分に与えられた役割、日本とカンボジア、そしてアジア全体との絆を維持し、関与することの大切さを改めて胸に刻んだ。
理事長
大学で法学と国際関係論を学んだ後、民間企業に就職。国連ボランティアとして派遣された国連カンボジア暫定統治機構や、国連南アフリカ選挙監視団における経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。米国の大学院で国際開発学を学んだ後、ミャンマーでのプロジェクトへの参画を経て、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々なプロジェクト運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは鬼ノ城跡、豪渓。神奈川県出身。
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