うみがめ便り~20年の時を超えて、オノリンブの浜で思う④

2025/12/12
2025年11月下旬からのインドネシア豪雨で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。グループ団体のAMDA(アムダ)が同地で実施している緊急救援の最新情報についてはこちら(AMDAの公式サイトへ移動します)をご覧ください。
なお、このブログは、アムダマインズ理事長の鈴木が、2025年3月にインドネシア・ニアス島を再訪した際、20年前に従事したニアス島復興支援事業を回顧して執筆されたものです。

 
(前号③はこちらから)
 

失意のあまり、乙姫の忠告に背き玉手箱を開けた浦島太郎(浦島太郎物語又は浦島説話)の結末には諸説あるようで、我々世代が最も慣れ親しんだ、玉手箱から白い煙が出てきて急激に歳をとり老人になった、あるいはそのまま死亡した説、鶴になり蓬莱山に飛んで亀に戻った乙姫(亀姫)と幸せに暮らした説、水平線の向こう側の乙姫(亀姫)と和歌のやりとりを行った説、傷心の身で森をさまよった説などである。

 

その中で、乙姫は常に亀の変身であったが、浦島太郎との出会いの場面は、村の子どもたちにいじめられていた説、漁師である太郎が釣り上げた五色の亀が姿を変えた説、天空の雲を割いて乙姫として降りてきた説等、亀がどのように美しい乙姫に姿を変え、太郎と結ばれたかについても様々なシナリオが存在している。

ニアス島の海岸にて(2025年3月撮影)

元々、この物語は恋愛ファンタジー小説であったらしい。従って、諸説存在すると言うよりも、物語の原型が最初に記されたとされる日本書紀を題材に、写本に関与した人々、意図をもって編集した人々が、使用目的によって物語の内容を書き換えてきたと推察される。

 

明治以降のものは、我々が良く知る道徳教育に活用されたバージョンだ(恋愛部分が削除されたもの)。そもそも、浦島太郎は太郎ではなく、瑞江浦嶋子という名の男前の漁師だったという。中身と結末に諸説ある一方で、浦島太郎の生誕地が京都の丹後半島にあることは確定していて、伊根町の浦嶋神社には玉手箱が保存されているらしい。出来過ぎの感もあるが、おとぎ話をあまり詮索しない方が良いかも知れない。

 

ところで、浦島太郎が竜宮城で過ごした月日は3年らしいが、人間界の村のあった場所に戻った太郎を待っていたのは数百年という歳月の経過であった。他方、私がオノリンブの浜を後にして、同じ場所に戻ってくるまでに経過した年月は20年、本来は相当な変化がもたらされていても不思議ではなかったはずである。

 

しかし、乙姫との竜宮城における甘い生活も玉手箱もない代わりに、私の目の前に現れた風景は概ね20年前と同じ風景であった。こういう体験をすると時が逆転し、若返るのではないかと考えたが、ホテルに帰り鏡の前に立った自身に変化はなかった(笑)。

 

もっとも、ニアス島へ向かう経由地として降り立った同国4番目の都市メダンは大きく変化していた。当時、契約相手であったUNHCRの地域事務所があり、また食料品の買い付けも行ったほか、査証取得のためシンガポールを経由してインドネシアへ入出国する際はいつもメダン経由であったため、何度も立ち寄った懐かしい街である。

メダン市を代表するショッピングモールの一つ「プラザ・メダン・フェア」は、多くのお客で賑わっていた(2025年3月撮影)

日本国政府の領事館もあり、思い出深いのは、2005年のクリスマスに邦人スタッフの2名が婚姻届けを提出したのもメダンだった。用紙には証人の欄があり、2名の押印が必要であったが、偶然にも、私ともう一人のスタッフが認印を所有しており事なきを得た。今思うと、なぜインドネシアに印鑑を持って出ていたのか今もって謎である。余談であるが、証人となったもう一人の同僚は、その後大学院に進んだ後、フィリピンミンダナオ島の和平をはじめ、平和構築分野で活躍していると聞く。

 

そして婚姻届が提出され、正式に夫婦となった二人を祝福するため、今も営業を続けている「すし亭」さんに全邦人スタッフが集合し、小さな宴席を設けた。当時はまだ日本人向けの味が求められていたと思われ、かつNGOの職員でも支払える価格帯だったと記憶している。とは言え、年に一度のぜいたくな宴であったことは間違いない。従って、ジャンケンに勝った者からお刺身を(盛合せの中から)一切れずつ優先的に取っていく単純なゲームが盛り上がり、他のお客様にご迷惑をおかけしたと思う。ただ、当時すし亭に入店できる、もしくは寿司を食べたいと思う現地の人は一部に限られていて、地元の人々でにぎわう現在のお店を眺めると隔世の感がある。いずれにしても、私にとっては、AMDA社会開発機構を立ちあげる直前の出来事であり、このドリーム・プロジェクトは竜宮城と言っても過言ではなく、おそらくこれが最後の楽しいひと時だったと思う。

  • 現在のすし亭さん。食事時になると前の駐車場は満車(2025年3月撮影)
  • 多くの地元客で賑わっている(2025年3月撮影)

もう一つ余談だが、メダンの領事館に婚姻届けを提出した二人のうち、花嫁は現在もアムダマインズに在籍しており、インドネシア人を祖先に持つマダガスカル事業を岡山の事務所で担当している。一方新郎は、来日したインドネシア人の技能実習生が多数研鑽を積んでいる介護事業所に勤務し、当時学んだインドネシア語を駆使しているという。何というご縁であろうか。

 

メダン市の規模は当時も大きかったが、現在は地方人口を飲み込み膨張し、大阪市にも匹敵しうる250万規模の人口を擁する巨大都市となった。さらに、当時市内にあった中規模の空港は郊外に移転し、巨大な国際空港に生まれ変わっていた。

  • ビル群が立ち並ぶメダン市(2025年3月撮影)
  • 空港内にはあのお店も!(2025年3月撮影)

もちろん、変わらないものもある。伝統的なパダン料理、特にルンダンサピ(ココナツミルク風味の牛肉の煮込み料理)やイカンバカール(特にマリネ処理した焼き魚)は、天国に持参したいほど美味しい料理である。特に前者は緑黄色野菜やジャックフルーツの煮込みなどとともにバナナの皮に包まれ、お持ち帰り用(=ブンクス: Bungkus)として提供される(写真)。しばらくするとご飯にタレが染みわたり、それを指から口に入れたとたん、この世のものとは思えないほど美味しく、その味が舌から目に伝わり涙がでるほど感激する。そして忘れてはならないのが淹れ立てのコーヒーを頭上からコップに注ぎ込むインドネシアの珈琲道(写真)など、昔から変わらぬ味と趣が残っていた。
 
日本においてエスニック料理が人気を博して久しいが、タイやベトナム料理などと比べ、マレーシアやインドネシアなど、イスラム圏の飲食店が少なく残念である。否、商機はここにあり(!)かも知れない。

  • バナナの皮に包まれたルンダンサビ
  • 高い位置から注ぐことで香りがより立つとか…

上記、かなり本筋とは逸れてしまったが、竜宮城の比喩、構成要素としてお伝えした。お付き合い頂き感謝したい。さあ、ここからが本題である。うみがめこと、私は近代化著しい大都市メダンを離れ、一路ニアス島に向かうのであった。(次号、最終回に続く)

 
 

 

この記事を書いたのは
鈴木 俊介(すずき しゅんすけ)
理事長


大学卒業後、民間企業に就職。その後国連ボランティアとしてカンボジアや南アフリカの業務に従事、様々なフィールド経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。大学院で国際開発学を学び、ミャンマーにおける人間開発プロジェクトに従事した後、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々な事業運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは表町商店街とオランダ通り。神奈川県出身。

 
 


 

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