被災地で想うこと、被災地から伝えたいこと-本部ネパール事業担当 小林麻衣子
現地で被災者支援活動を続けているスタッフより、現地のレポートが届きました。 =========================== 5月12日(火)、マグニチュード7.4の大きな余震が起きました。 13 日の朝になっても事業地とは連絡が取れず、急きょ、パートナー団体(サグン)のスタッフと共に、事業対象地のカルパチョウク村、また隣接するシパリ・チラ ウネ村とワルティン村を訪ねることになりました。前日の夜、いざという時にすぐ逃げられるよう、バックパックに荷物を詰めていたのが功を奏して、10分で 出発の準備が整いました。 事業地に到着して、まず、カルパチョウク村の1区と2区を訪ねました。案の定、前回の地震で亀裂が入っていた多く の建物が全壊していました。事業を通じて形成した青年グループメンバーのマノーズ・シュレスタ君の家も、かつての面影を全く失っていました(写真①)。彼 は言います。「僕がこれまでもらってきた、成績証明書や卒業証書ががれきに埋もれてしまった。大事な本も、辞書も、全部なくなった。食べ物や服がないこと よりも、僕が勉強してきた軌跡や指針としていたものがなくなってしまったことがいちばんつらいです。」それでも彼は、「こんな時だからこそ、みんなのため に動いていたい。自分が希望を持っていないと、周りの人にも希望を与えられないから」と言って、今回の私の事業地視察に最後まで同行してくれました(写真 ②)。 |
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住む場所を失った村の人たちは、行くあてもなく、崩れた家の跡地に防水シートを被せただけの小さなスペースで暮らしています(写真③)。また、地理 的な要因からまだ支援が充分に行き届いていないワルティン村では、防水シートやテントを手に入れることができず、5世帯とその家畜が小さな養鶏小屋に身を 寄せているケースもありました(写真④)。6月以降、本格的な雨期が始まることを考えると、浸水でがれきがまた崩れる危険、衛生状態の悪化から感染症が蔓延する危険など、人々の安全と健康を脅かすリスクがすぐ側まで迫っています。 | |
AMDA-MINDSは、これまでに基本的な医薬品の提供を 行っており、それを受けたサブ・ヘルスポスト(公的な地域診療所)のスタッフであるマッリカ・バスネットさんはこう話してくれました。「私の家も半分が崩れてしまい、住むことはおろか修理することさえ不可能です。家には10ヶ月の息子と4歳の娘がいて、お母さん行かないで、と言って泣きます。それでも、私 がここに来なければ必要としている人に薬を渡すことができません。こんな時に人の役に立てないなら、この仕事をしてきた意味はないと思ってがんばっています。」(写真⑤)
余震による家屋の倒壊を恐れて、今、3つの村の全1,400世帯全員が屋外で夜を明かしています。私自身、村に滞在中は外にマットレスを敷いて寝ていました。余震の度に目が覚め、「もう揺れないで・・」と願いながらまた目を閉じる、の繰り返しでした。 シパリ・チラウネの1区に住む、シヤニ・タマンさんは、2人の娘が嫁ぎ、夫に先立たれ、ヤギの乳を売ってなんとかひとりの生活を営んでいました。4 月25日の地震で家が全壊し、今はそのがれきの上で、ベッドがひとつだけ入る小さな小屋に暮らしています(小屋は村の若者が廃材で建ててくれたそうです)。「もう、何もないよ。結婚して夫と築いてきた証も、子ども達の思い出も全部なくなったよ。家と一緒にいっそのこと自分も死んでしまった方がどれだけ よかったか、と心の底から思うよ。それでも、これまで私を生かしてくれたヤギたちがいるから、なんとかこの子たちの世話をしてやらないとね・・・。」泣きながら話してくれたシヤニさんの横で、私も涙をこらえることができませんでした(写真⑥)。 村にいるのは「多くの被災者のうちのひとり」ではなく、これまで生きてきた歴史と物語を持つひとりひとりの人間なのだ、ということを強く思います。安全で安心して寝ることができる環境を確保したい。村の人たちに、なんとか希望を持ってもらいたい。これが今の私たちの目標です。 どうか、皆さまからのより多くのご支援をお願い致します。 |
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