私がネパールで仕事を続けているわけ ~4回目の4月25日によせて~ ネパール事務所 小林麻衣子

2019/05/09

みなさん、ナマステ(こんにちは)。
 
5月に入り、カトマンズでもじりじりとした暑さをようやく感じるようになってきました。例年なら3月後半には、ぱっと空が明るくなるとともに「初夏の陽気」を迎えるのですが、今年は暴風雨や、雹に見舞われて寒くなる日がしばしばあり、3月31日には激しい雷雨を伴う竜巻がネパール南部の2郡を襲い、30名以上の命が奪われる災害も発生しました。
 
先月の4月25日、大震災の発生からちょうど4年が経ちましたが、この間、私もほとんどの時間をネパールですごしてきました。現在のカトマンズでの生活からは、震災の爪痕はほとんど見られないほど、街も人々も復興を遂げたように感じます。それでも、大通りから外れた細い路地などを通ると、傾いた建物がたくさんの「つっかえ棒」で支えられている光景が、まだまだあります。このような場所には古い様式の住宅が密集していて、被害を受けた家屋だけを建て直すことが困難なため、震災以降まさしく手つかずの状態なのですが、それでも人々の生活がそこで行われていることに驚いてしまいます。
 
被害が甚大だった14郡での住居再建状況を見てみると、政府の支援を受けて再建が完了したのは被災家屋全体の49%にしかならないことから、ネパール全体での復興はまだまだ道半ばであると言えるでしょう。

「つっかえ棒」で支えられている古い家屋

この4年間をネパールですごしてきた中で強く感じたのは、一人ひとりにそれぞれ異なる物語がある、ということでした。考えてみれば当たり前のことなのですが、もし私が、震災のすぐ後に被災したコミュニティに入ってから4年間継続してかかわらせてもらえる機会を持つことがなければ、亡くなった約9,000名、負傷された約22,000名の人々を、総体として認識することしかできなかったと思います。
 
AMDA-MINDSが実施した(している)被災者への支援活動は、緊急の物資配布倒壊家屋の解体と家屋再建に係る技術・物資の提供、ローカルの大工育成、生活再建に向けた農業振興、などがあり、その中でできる限り一人ひとりの身に起こった出来事や変化を把握するよう努めてきました。どの人の話も忘れがたいのですが、今回はとても印象に残っているおばあちゃん、シヤニ・タマンさんを紹介したいと思います。

震災当時64歳のシヤニ・タマンさん

そのおばあちゃんとの出会いは、2015年5月15日。震災後にコミュニティの状況を確認して回っている時でした。おばあちゃんは、その数年前に旦那さんを病気で亡くされ、ひとりで暮らしていたところ、震災で家が全壊しました。その時に、泣きながら話してくれた言葉を今でも覚えています。「もう何もないよ。夫と築いてきた生活の証も、子どもたちが育っていった思い出も。どうしてひとり生き残っちゃったんだろうね。私のことも家と一緒につぶしてくれたらよかったのに。」その時私は、おばあちゃんの細い肩に手をまわして一緒に泣くことしかできませんでした。
 
その3年後、農業振興プロジェクトのモニタリングでコミュニティを訪れている時、おばあちゃんに再会したのです。おばあちゃんは私に近寄ってきて、こう言いました。「あんた、地震の時に来てくれた日本人だろう?私と一緒に泣いてくれただろう?」私は覚えてくれていたことが嬉しくなって、またおばあちゃんの肩に手をまわしました。今はどうしてるの、と尋ねる私に、おばあちゃんは答えてくれました。「娘夫婦が一緒に住んでくれることになってね。政府の補助金をもらって家を建て直してるところだよ。娘は、あんたんとこのプロジェクトで野菜作ってるよ。おかげで私は孫3人の面倒をみなきゃいけなくて、毎日忙しいのさ。」
 
プロジェクトを実施している以上、「〇人が野菜を売る」、「現金収入が〇〇ルピー向上する」といった数量的な成果目標を掲げた上で、それらを達成することが現地の人々はもちろん、それを支える私たち自身の成長の証になるのですが、それ以上に、こうした数値には表れない一人ひとりの物語を聞くことができ、その変化を身近に感じられることこそが、この仕事を続けていることで得られる最大の喜びなのだと思っています。そして、それらが私の人生を豊かにしてくれていることは、言うまでもありません。
 
これからも、「見続けているからこそ伝えられること」を大切にしていきたいと思っています。

コミュニティで話をする筆者(左)