理事長ブログ「うみがめ便り~再びカンボジアへ(続編)」

2023/03/30

2022年11月初旬、私はASEAN(東南アジア諸国連合)首脳会議を直前に控えたカンボジアの首都プノンペンにいた。30年前と打って変わり、近代化された都市の風貌を見せてくれた一方で、当時連立政権の首相(正確には第二首相)を務めたフンセン首相が、30年後の今も首相の座に君臨し、同会議の議長を務めていようとは、そのころ誰が想像できただろうか。
 

新旧入り混じるプノンペン市の様子

 
1992年から1993年にかけて、私は国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が支援する和平、民主化のプロセスを、カンポット州チューク郡で後押しし、内戦後の復興にいたる道筋を整備する仕事をしていた。今回プノンペンの街を見る限り、その発展度合いは目覚ましく、アジア最貧困国の一つであった事実は、当時その場にいた歴史の証人たちの記憶の中だけに存在するかのようである。果たして、この国の発展を砂上の楼閣だと言えるだろうか。首都から離れ、かつて働いていたチューク郡に戻ることでその答えを見出すことができるかと考えた。私のカンボジアの旅はカンポット州へ続くことになった。
プノンペンから南西に110キロメートル。今は道路事情も良く、交通渋滞の激しいプノンペンの中心地を抜けさえすれば、国道3号線沿いのチュークまでは2時間そこそこで到着できる。
 
もっとも、昔はそうはいかなかった。中間に位置するタケオ州までは良かったが、それ以南はいたる所に穴の開いた道路。UNTAC当時、国際貢献目的で派遣された自衛隊(工兵部隊)が盛土による路床工事を施したため、任務最後の数か月の道路事情は改善された。ただし、私の記憶が正しければ、自衛隊は恒久的なインフラ整備ができない縛りがあったため、修復はあくまで暫定的なものでアスファルト舗装はされなかった。UNTAC終了後の雨期、そしてその後数年を経て元通りの悪路になってしまったことは想像に難くない。記録を見ると、現在の国道3号線は、中国の支援で整備されたらしい。
 
チューク郡中心地の様子

 
さて、チューク郡の街に到着し、幹線道路沿いの商店を一べつしながら最初に向かったのは郡の中心地に位置するチューク市場だ。建物はコンクリート造りになっていたが、平屋は変わらず、むき出しで並べられた野菜、魚介、肉などがムッとする暑さの中で独特の臭いを放っていた。また、衣料品や雑貨などが所狭しと並べられている構図や雰囲気は30年経った今も変わっていない。市場にはかつて一緒に仕事をしたスタッフが営む工具店や、当時住んでいた家の大家の家族が営む薬局などがあった。ただ、UNTAC後、市場内に飲食店を開いた元スタッフ、互いにしのぎを削った当時の郡長(政権政党指導者)の死去が知らされた。30年という時を経て、変化と不変、存在と不在が頭に押し寄せ、私の脳は消化不良を起こした。
 
しばらくして消化酵素を届けてくれたのが、ポーさんであった。ポーさんは当時20歳くらいだっただろうか、家事手伝いとして大家宅に身を寄せていて、大家との人間関係や彼女の境遇はドラマ「おしん」を連想させた。私が住んでいた高床式の木造住居は居心地が良く、当時のチュークでは2番目にきれいな家といわれていた。私はポーさんに洗濯や時々の調理をお願いする代わりに毎月謝礼を渡していたが、それだけでは十分ではなかったのだろう。時間があれば、サトウキビを絞ったジュースを売り歩くなど、小規模ビジネスにも前向きで、毎日を懸命に生きていた。
 
彼女はUNTAC後に結婚し、3人の子どもを授かった。いまではたくさんの孫にも囲まれ、おしんから、さながら「大阪のおばちゃん」へと立派な成長を遂げた。もちろん、ご主人の活躍もあったと思うが、この30年の間に彼女のビジネスは大きく成長した。一時は市場の中で衣類や靴を販売したり、自宅の軒先で汁麺の店を営んだりしたようだが、現在は大学の薬学部を卒業した子どもと薬局を営む傍ら、国道から十数メートル内側に入った土地を購入し、15室を備えたアパートを建設し運営している。いまは日本円で〇千万相当だという土地の価格を聞いてびっくりした。
 
ポーさん家族が建てたアパート

 
短絡的に決めつけてはならないが、内戦終結後の30年、彼女とその家族のように、前向きに努力し懸命に生きてきた人々の多くが豊かさを手に入れていることを実感した。その背景について、もう少し検証したいと考えた。(次回に続く)
 
 

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この記事を書いたのは
鈴木 俊介(すずき しゅんすけ)
理事長


大学で法学と国際関係論を学んだ後、民間企業に就職。国連ボランティアとして派遣された国連カンボジア暫定統治機構や、国連南アフリカ選挙監視団における経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。米国の大学院で国際開発学を学んだ後、ミャンマーでのプロジェクトへの参画を経て、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々なプロジェクト運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは鬼ノ城跡、豪渓。神奈川県出身。

 

 
 

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