ボー市の思い出(後編) ~日没する国の少年~ / シエラレオネ事務所 西野義崇
(前編から続く)2013年11月にこの町を訪れた時、私はとあるホテルに泊まっていた。「ホテル」と言っても、水道はすぐに壊れるし、電圧が不安定で、部屋の照明の裸電球はチカチカする(注1)。そこで一人の少年が手伝いをしていた。名はハッサンと言った。イスラム教徒にはよくある名前である。
「君のお父さんがこのホテルで働いているのかい?」
てっきり宿のご主人の息子だと思い、私は彼に話しかけた。
「いや、父さんは死んだんだ」
「そうか、すまないことを訊いた。君は、今、何歳?」
「今、13歳。」
しかし、13歳にしては小柄だ。かつてザンビアの孤児のための学校で13~14歳くらいなのに、栄養状態が良くないために随分と小柄な子供たちを見たことがある。ただ、彼もそうなのかどうかは分からない。あるいは、早く働きに出すために、年齢のサバを読んでいるのかもしれない。
「じゃあ、小学校を卒業したところか。それで英語が分かるんだね。君の母語は?」
「メンデ語だよ。クリオ(注2)も分かる。」
「そうか、そりゃすごいな。ところで、私がどこから来たか分かるかい?」
「うーん、”China”かな?」(注3)
「あはは、”Japan”という国だ。学校で地理は習っているよね?」
「うん。」
「このあたりに”China”があるとする。その先は”Korean Peninsula”だ。その先の海に浮かぶ島が”Japan”だ。」
そうやって、空中に手で地図を描きながら説明する。
「ところで、君の将来の夢は何だい?」
そう尋ねると、彼は恥ずかしそうな笑みを浮かべながら
「警察官」
と答えた。
「ボーで警察官になるの?」
「うん、そうなりたい。」
「そうか。そりゃいい夢だ。」
そんな他愛もない会話を交わした。
その日も、彼のはにかんだ顔が赤々とした夕日に照らされていた。日没する国、シエラレオネ。
シエラレオネの母子保健の状態は他のサブサハラアフリカ諸国と比べても厳しい。先程の少年も、そうした厳しい環境を生き延びて、めでたく13歳を迎えることができたのだ(注4)。一方、かつて、日本も多くの人々が命をかけてお産をし、結核などによって多くの人が犠牲となった。環境は大きく違えど、有島武郎が1917(大正6)年に「小さき者へ」に書いたような過酷な世界である。だが、「小さき者へ」は次のような文章で締めくくられる。
「小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ。」
その後、シエラレオネはエボラウイルス病の大流行という試練を味わう。エボラ対策に追われるため、国の一般保健医療も大きな打撃を受けた。2016年11月7日、最初の「エボラ終息宣言」から1年を迎えたが(注5)、保健医療の復興はまだ道半ばだ。
2016年11月、同じホテルを訪れたが、ハッサンはもう辞めており、ホテルの人も、彼がその後どうしているか知らないという。エボラ流行時には保健医療のみならず、商業・観光業を含む広範な産業において客足が遠のき、国の経済に甚大な影響が出た。彼もそのあおりを受けて辞めざるを得なかったのか、それは分からない。今年で16歳になっているはずだ。彼は今、どうしているのだろう?
日出る處のいと小さき者が日沒する處のいと小さき者へと書を致す。ああ、恙無しや!
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(注1)2016年現在、シエラレオネでも、インバータ式電球型蛍光灯が普及してきており、白熱電球からの置き換えが進んできている。
(注2)英語を基に発展したクレオール言語。シエラレオネでは、民族が異なっても、事実上の共通言語になっている。
(注3)シエラレオネの人々は、遥か遠い東アジアを漠然と”China”と呼んでいるように思える。東アジア人は国籍にかかわらず、皆 “China man”と呼ばれるからだ。ちょうど、日本の多くの人々が、シエラレオネ人もギニア人もリベリア人も、皆「アフリカ人」と呼ぶように。
(注4)一般に、途上国において平均寿命を押し下げる要因として大きいのは、生まれて間もない乳幼児の高い死亡率である。
(注5)最初の終息宣言後にもエボラ患者が確認され、その後、改めて2016年3月17日に終息宣言を出した。