うみがめ便り~20年の時を超えて、オノリンブの浜で思う②

2025/10/22

(オンノリブの浜で思う①は、こちらから)
 
ニアス島は、2005年3月のスマトラ島沖地震の際に大きく被災した。目撃したわけではないが、地震により島全体が傾いたらしい。その際、ずっと陸地だった島東部の一部地域は海に沈み込み、海岸付近に建てられていた家屋やモスクなどが破壊された一方、島の西側の一部では、これまで海面下にあった岩が波間から浮上し陸地になったとのこと。このように、大きな地形変化をもたらした自然の力には圧倒されるほかない。

  • 沿岸部の多くの家屋が全壊した
  • 半壊したモスク

余談ではあるが、かつてサーフィンのメッカだった場所では波の立ち方にも変化が生じたらしい。それ故、世界のサーファーたちはもうニアス島で波乗りができないのではないかと気をもんだらしいが、杞憂に終わったようだ。関心のある方はこちらのURLをどうぞ(Surf Indonesia/サーフ・インドネシア。

 

残念ながら、我々は豪快な波とは縁のない島の東部を主な活動の場とした。もっとも、プロジェクト対象村となったタガウレ村の沖合2Kmに浮かぶオノリンブ(Onolimbu)という小島の周辺にパラダイスのような場所があったことは、この時知る由もなかった。

  • ニアス島はマレー半島の西方、インドネシア・スマトラ島の西側(出典:Googleマップ)
  • そのニアス島の東の沖合に浮かぶオノリンブ(出典:Googleマップ)

AMDAはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と契約を結び、大きく被災した3村において、250棟の仮設復興住宅を提供することを目的に被災地支援事業に取り組んだ。契約パートナー(発注者)のUNHCRは、通常は難民を支援する組織である。AMDAも本邦NGOの中ではUNHCRの重要な事業実施パートナーであり、(25年前の)私の入職後も、ジブチ、アンゴラ、ネパール等で隣国からの難民や国内避難民に対する支援活動を推進した。しかしスマトラ島沖地震は被災規模が大きく、難民支援分野ではない数少ない例外の一つだったと考える。UNHCRは、日本政府の協力を得てアチェとニアスにおけるオペレーションを担うことになった。

  • 事務所の看板をとりつける日本人職員ら。大型プロジェクトのため、6名の職員が駐在していた
  • 活動対象の村々の訪問は、陸路より効率的な船で

そして、もう一つのパートナーはWFP(国連世界食糧計画)であった。通常、WFPは食糧や施設の運搬を含むロジスティクスを専門に行っており、ニアス島においても、木材をはじめとする資機材の海上輸送、荷揚げなどの役割を担った。UNHCRはWFPと連携して、AMDAの担当地区だけでなく、島内の他の地域で同様の活動を行う国際NGOなどにも資材を提供した。ただし、提供した後の物資の行方不明事案が度々生じたことから、AMDAは、それらをモニタリングする業務を追加で担うことになった。片や復興住宅の建設、片や資材の行方調査に大車輪で取り組んだ。

 

結論を先に述べると、国連機関をパートナーに仕事をして、この時ほど充実した活動ができ、有意義な成果を上げることができたプロジェクトは他になかった、と断言できる。それぞれの組織が資源と技術、能力を持ち寄り、活動を推し進め、直面する困難に対してスクラムを組み、課題を次々に解決していった・・・今思うと、夢のプロジェクト(Dream Project)だったと言える。

 

プロジェクトの成功を示す理由は何点か挙げられるが、以下をお伝えしたい。(③につづく)

 
 

 
 

この記事を書いたのは
鈴木 俊介(すずき しゅんすけ)
理事長


大学卒業後、民間企業に就職。その後国連ボランティアとしてカンボジアや南アフリカの業務に従事、様々なフィールド経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。大学院で国際開発学を学び、ミャンマーにおける人間開発プロジェクトに従事した後、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々な事業運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは表町商店街とオランダ通り。神奈川県出身。

 
 


 

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