うみがめ便り~20年の時を超えて、オノリンブの浜で思う⑤

2026/01/08
2025年11月下旬からのインドネシア豪雨で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。グループ団体のAMDA(アムダ)が同地で実施している緊急救援の最新情報についてはこちら(AMDAの公式サイトへ移動します)をご覧ください。
なお、このブログは、アムダマインズ理事長の鈴木が、2025年3月にインドネシア・ニアス島を再訪した際、20年前に従事したニアス島復興支援事業を回顧して執筆されたものです。

 
 

前回までに触れたとおり、うみがめがオノリンブの浜に戻ってきたのは20年ぶりである。2005年9月から2006年3月までの間、AMDAは震災後の簡易復興住宅の建設を支援するプロジェクトを実施し、成功に導いた。その住宅も含め、村の様子は相応の変化を遂げていることが予想されたが、浦島太郎説話とは異なり、またメダンの変貌ぶりとは対照的に、村の風景に大きな変化が見られなかったことは驚きに値する。

  • 20年前と変わらぬ景色
  • アジの一種だろうか。出荷を待つ魚と作業を見守る子どもたち

玉手箱を開けてしまった浦島太郎は住民を認知できず、数百年後の村人たちも太郎のことを覚えている由もなかった。他方、ニアス島の村人たちはAMDAを覚えていた。また人懐こかったコージ(本邦スタッフの一人)のことをよく覚えていた。
 
そして何よりも、すでに建て替えられているはずの復興住宅は20年後の今も健在で、村人たちは家族とともにその一軒々々に住んでいた。顕著な発展を遂げていなかった村の風景を眺めるとやや複雑な心境ではあったが、うれしさも込み上げた。あの時に建てた住宅は、海岸沿いの場所で20年の風雨に耐え、約300の家族の生活を守ってきたことが一目で理解できたからだ。

  • 2006年撮影
  • 2025年撮影

 

いくつかの家の玄関前には小さな花壇があり、また伝統的な模様に塗装された家もあり、家屋が大切に維持されてきたことがうかがえた。パラボラアンテナがある家屋もあり、衛星放送へのアクセスが確保されていることも分かった。さらに一部の家は増築されていて、その部分が新しい生活空間になったり、雑貨店になったりしていた。
 
短時間の訪問であったため、外見的な変化しか確認できなかったが、被災直後の状況と比較しながら家々を訪ねると、子どもの数や笑顔が増え、さらにコミュニティ内の調和がとれていて、とても幸せそうな印象を受けた。

 

日々の暮らしの中に息づく、静かな幸福感が感じられた

 

自画自賛になるが、プロジェクト終了後20年を経て、特に小規模インフラ支援事業のインパクトがこれだけ維持されているのを確認できたことはとても意義深い。UNHCRやWFPの方々にも、この奇跡とも言える20年後の姿を見てもらいたいと切に願った瞬間であった。

 

太陽が真上から照りつける正午前、当時の記憶をたどり村人に声を掛けながらゆっくりと歩く日本人は、週末ではあったが当局の耳に入ったようで、一時間前には誰もいなかった村役場への招待を受けた。まずは私自身の身元を確認することから始まったが、当時この地域の復興に協力したAMDAからの使者であることを告げると、それまで彼らの側にあった緊張は解け、さらにスズキを名乗ると、過去の記憶がよみがえったようで、笑顔になり、一気に距離が縮まるのを感じた。当時を知る役場の職員が今も勤務し続けていることを知り驚いた。岡山の浦島太郎にとって、20年はあまりに短かったと言うべきであろうか。時を経ても、変わらぬこと、変わらぬものがあったことを実感した。

 

村の様子を観察した後だっただけにある程度予想はできたが、役場の職員に20年の時を超えてさらなる支援を求められた。老朽化した家屋の修理、漁業の支援、母子保健の増進等々、頭に浮かんだが、私はこの役場職員の求めに対し「我々の役割は、20年前の復興期において果たされたと考えている。インドネシアはその後、国全体としてはアジアの中でも飛躍的な発展を遂げ、それぞれの自治体が力を発揮し、住民を支援することが十分可能。上位組織への陳情を通じて目的達成に努めて欲しい」と述べて、最近の言葉で言いえば「ワンチャン」を狙ったと思われる彼らのアプローチを退けた。彼らも概ね私の返答を予期していたようで、この会話によってお互いの関係が悪化することはなかった。それが証拠に、記念写真を求められた。

 

役場の職員と。突然の訪問にも関わらず温かく迎えてくれた

 

彼らに別れを告げた後、私を乗せたレンタカーはドリーム・プロジェクトの多数の跡形が残る村々(=竜宮城)を去り、遅い昼食をとることにした。私を過去の世界に導いてくれた運転手から「豚肉を食べることはできるか?」と尋ねられた。人口の半数以上がイスラム教徒であるこの国では、その可否を尋ねるのは礼儀である。また豚肉を提供する場所は限られており、キリスト教徒や華人など、非イスラム教徒にとってご馳走の一つである。車は15分ほど南へ向かい食堂にたどり着いた。大鍋の中で煮込まれた角切りの豚肉料理はこの島でも一般的であるが、変わらぬ味を確認した。ちょうど夕立が優しい雨を連れてきた。季節にもよるが、夕立の訪れは変わらぬもの。

  • 大鍋の中で煮込まれた豚肉料理
  • 夕立にも懐かしさを感じる

しばらく雨音を聴いていたが、隣のテーブルでリストを見ながら電卓を懸命にたたく、決して若くはない男女の存在に気がついた。どうやら小規模融資を提供している地場銀行の職員で、雨宿りを兼ねて業務を続けているものと思われた。リストは上から下まで細かく記載されていたので、顧客である小規模事業主の名前や融資額、返済計画などが記載されていたのであろう。インドネシアは今やマイクロファイナンス王国である。けして若くはない男女の背中を見て、また電卓の音を聞いて、小規模融資がこの地域の復興を継続的に支えてきたことがうかがえた。

 

島の中心地であるグヌンシトリに戻り運転手とも別れた。ホテルでひと休みしたあとの日没後、モスクのスピーカーからアザーンが流れる街を歩いた。当時と同様にスタンドでココナツジュースを飲み、思い出に心を寄せながら焼き魚(イカンバカール)を食べた。ホテルに戻る途中、日本へのお土産を探していたところ、夫婦で自家製のチョコレートを販売しているSDGs的なブティックを見つけた。何らかのプロジェクトから支援を得ているのかと尋ねたところ、夫婦自身による新しい取り組みとの回答を得た。相応の値札が付いていたので観光客向けであることは理解でき、お土産として複数購入した。

  • 日没後の散策。街全体がリラックスしている
  • チョコレートブティックの入り口

変化は時にもたらされるものでもあるが、時に生まれるもの、生むものでもある。岡山からやってきた浦島太郎の夢物語は20年の時を超え、オノリンブの浜を舞台に再開されたが、傷心から玉手箱が開けられることはなかった。

 

20年の時を超えて、オノリンブの浜で思う

 
参考文献:
AMDAジャーナル「ニアス島緊急復興支援プロジェクト特集」(2006年3月号)
AMDAジャーナル「インドネシアプロジェクト」(2006年11月号)
AMDAジャーナル「ニアス島復興支援事業」(2007年春号)
 
 

 

この記事を書いたのは
鈴木 俊介(すずき しゅんすけ)
理事長


大学卒業後、民間企業に就職。その後国連ボランティアとしてカンボジアや南アフリカの業務に従事、様々なフィールド経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。大学院で国際開発学を学び、ミャンマーにおける人間開発プロジェクトに従事した後、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々な事業運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは表町商店街とオランダ通り。神奈川県出身。

 
 


 

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