理事長ブログ「うみがめ便り ~ 光と影 – UNTAC成功の陰で ~」
前回、前々回のうみがめ便りの中で、30年前にカンボジア和平を支援する国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の一員として貴重な経験を積ませて頂いた旨、お伝えした。今回のブログはその番外編として、UNTAC成功の陰で私が見た光と影を、一つ二つお話したい。
私の仕事は担当郡で総選挙(憲法制定議会選挙)に至る民主化プロセスを支援すること、そして、民主主義や選挙制度に関する市民教育を行うことであった。正式名は、District Electoral Supervisor & Civic Education Specialistである。自治体における選挙管理委員長と広報官を足して2で割ったような仕事である。ただ、広報については、当時村人たちの識字率が高くなかったことから、UNTACのラジオ番組を通じたPR活動や、村々において直接語りかけたり、ドラマ仕立ての広報ビデオの上映会を開催したりするというような文字に依存しない活動が主だった。もっとも、ラジオは高価であり、当初の聴取率は高くなかったはずである。
そのような折、日本から大量のラジオが寄贈された。とても有難かった半面、電池を挿入する箇所がさびて使えなかったり、そもそも故障していたり、検品作業だけでも大仕事だった。さらに、個々の品質、見栄えが異なることから、住民に配布する際、くじ引き抽選にするとか、すでに所有している人を上手に排除するとか、極めて慎重かつ丁寧なアプローチが求められた。そうでもしなければ、「あの人が一番大きいラジオを受け取ったのは・・・だからだ」といった、やっかみ半分の根も葉もないうわさが広がって村の人間関係に悪影響を与えてしまったり、場合によっては、それがUNTACに対する不信感につながってしまったりする恐れがあった。通常業務に加え、こうした数々の付帯業務に携わりながらも、道は総選挙に通じていた。
しかし、総選挙を目前に控えた1993年の春、パリ和平協定に調印した4派のうち、武装したままのポル・ポト派が和平プロセスから離脱したことにより、UNTACは深刻な危機に直面した。一方、カンボジア全土に駐屯する国連の平和維持部隊の抑止力は大きく、ポル・ポト派もうかつには手を出せなかった。
選挙が近づくにつれて、ベトナム系住民が多く居住する地域への攻撃が増加したという情報が入るようになったが、私が担当するカンポット州チューク郡は、ベトナム国境から距離があったこと、また仏軍中隊が駐屯しており、中隊長とのコミュニケーションも円滑に行われていたため、安心して任務を遂行することができていた。一部地域で、ポル・ポト派の影響力が強まった時もあったが、選挙を中止せざるを得ないような状況にはならなかった。ちなみに、日本の自衛隊から派遣された施設部隊が、チューク郡を貫く国道3号線の補修に携わった際、彼らを守ったのもこの仏軍部隊である。
そのような状況下で迎えた5月23日、投票初日の早朝、隣のチュムキリ郡で迫撃砲の音が幾度も響きわたった。同郡に駐屯していた仏軍小隊は包囲され、私の同僚も拘束されたという突然の知らせは、驚きと同時に恐怖を伴った。なぜならその同僚は、退任した警察署長(フランス人)で、治安対策のプロ、仏軍とともに予防措置を取っていたはずだと考えたからだ。
その後、事件現場で何が起きたかは知る由もないが、チューク郡から救出に向かった仏軍部隊の即応力は見事だった。私の記憶に間違いがなければ、午後にはポル・ポト派との交渉が終結し、仏軍小隊も私の同僚も解放されたと聞いた。ただ、チュムキリ郡では投票できる状況にはなく、即時停止措置が取られ、投票が再開されたのはその3日後、26日以降だった。カンボジアにおける総選挙は本来、1993年の5月23日に開始され、25日に終了する予定だったが、28日まで延期された背景には、このチュムキリ郡における事件があった。
さて、今となっては笑い話であるが、平和維持部隊のメンバー選出は各国政府に任されている。服役囚をかき集め、ピンハネ目的で派遣部隊を即興で編成した国もあったともっぱらの噂だった。従って、中には極めて素行の悪い部隊があり、堪りかねた(駐屯地周辺に居住する)住民がポル・ポト派に依頼して、駐屯地に迫撃砲を打ち込んでもらうという事件もあった。ついでにお伝えすると、様々な国から派遣された文民警察官が各郡に駐在していたが、各々の業務遂行能力や勤務態度、母国からの支援などに格差があり、私は自身の担当郡でそうしたことに起因する課題を抱えた。幸い、ドイツから派遣された文民警察統括官が私の苦情を聞き入れ、問題解決に尽力してくれた。
このように、私が平和維持部隊や文民警察官から得たサポートは極めて有難く、幸運だったが、同じ業務にあたっていた同僚からは、多くの酷い話を聞いた。総体として、総選挙を実施運営できたUNTACは大成功と言えるが、その他の国際貢献や外交などと同様、その陰には、川上、川下を問わず、多くの語られない、語れない裏話がある。これら込み込みで、極めて貴重な経験を積ませて頂いた私の目の前には、国際協力の大海原が広がっていた。
理事長
大学で法学と国際関係論を学んだ後、民間企業に就職。国連ボランティアとして派遣された国連カンボジア暫定統治機構や、国連南アフリカ選挙監視団における経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。米国の大学院で国際開発学を学んだ後、ミャンマーでのプロジェクトへの参画を経て、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々なプロジェクト運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは鬼ノ城跡、豪渓。神奈川県出身。
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