理事長ブログ「うみがめ便り~ザンビアから釜石へ」

2021/03/24

今年の3月11日、東日本大震災から10年を迎えたその日、亡くなれた方へ黙とうを捧げ、傷ついた方へ思いを寄せ、災害と防災、そして命について改めて考えた。
 
2011年のその日、私は日本と9時間の時差があるザンビアの首都ルサカ市にいて、現地の保健省幹部とともに、これから始まる3年間のプロジェクトを正式にキックオフするための合同調整委員会の初会合を控えていた。そして、その重要な会議が終れば、数日後には日本へ帰国するという状況にあった。
 
朝食時、宿舎の食堂のテレビには中国の国際報道が流れていて、その画面には、船が陸に打ち上げられて橋の欄干に激突している光景、またその先の田畑の上を多数の家屋が押し流されている惨状が映し出されていた。それが日本であることを理解するのに時間はかからず、私はただ立ち尽くすしかなかった。合同調整委員会の会議場に到着し、設営に取り掛かっても、コンピューターの画面からは津波により破壊された街の様子が流れ続けていた。
 

合同調整委員会にて発言する筆者(奥左端)

 
その日から遡ること約16年、1995年の1月17日、ニューヨークの学生寮にいた私はインドネシア人留学生に呼び出され、部屋に設置されてあったテレビの前に連れて行かれた。「これはあなたの国で起きていること?」高速道路がうねりながら崩れ落ち、コンクリートで造られた街が崩壊し、大火災が発生している様子が映し出されていた。はじめは映画の一コマだと思い「まさか」と答えた。息もつかずにしばらく見届けた後になってようやく、本来起きるはずのない現実を把握できたが、そこにもただただ立ち尽くす自分がいたことを思い出した。
 
大災害、激甚災害は、今の科学では予期、制御することはできない。また、一定規模の災害に対して有効な防災体制、防災技術も、想定を超える規模の災害に対しては役に立つかどうか分からない。ここ数年の国内外の災害史を見て、これが結論だと感じた。際限のない膨大な防災費用の投入は他の公共支出を圧迫するため、むしろ人々の生命や健康の維持や福祉を阻害することになりかねない。災害後に突貫工事で造られた防潮堤や河川堤防は、コンクリートの寿命を考えると100年の一度の大災害時には役に立たないと指摘する識者もいる。
 
では我々一市民は自身の命を守るためにどう行動すべきか。私は、原因とリスクを理解し、可能な限り低リスク環境に自らを置くこと以外にないと考える。もちろん、人は人生を紡ぐ、また日々を暮らす中で、生命を脅かすリスク以外にも様々な要素を考慮、判断して生きている。そもそも、命に対する考え方は宗教や信条によって異なる。「神、縁、あるいは自然によって生かされている」と考えている人も少なくない。
 
宿舎のロビーで派遣者らと打ち合わせする筆者(右から2人目)

 
なお、ついでになるが、私は2011年3月19日にザンビアから帰国した。もちろんAMDAはすでに災害発生直後から医療等の救援活動を複数個所で展開していた。当法人からも関係者が数名派遣され、昼夜兼行で救援活動にあたっていた。ところが、そのうちの一人、調整役を担っていた男性職員が体調を崩してしまった。私は自ら申し出てすぐに釜石へ向かった。彼が回復するまでの期間、釜石を拠点に大槌などにおける業務にあたった。私は過去に、ベネズエラのカラカス、インドのグジャラート、インドネシアのニアス島などにおける救援、復興活動に従事し、被災地支援を肌感覚で体得していたが、国内における活動は初めてであったため、ご迷惑にならないか少し案じていた。幸い、総社市から借用した三菱自動車のi-MiEV(アイミーブ)が活用できたため、自ら運転し、調整会議への参加、医療活動、炊き出し、物品の搬送、医療従事者の宿舎の確保など、様々な業務に従事することができた。また被災者の中には漁業従事者も多く、避難所生活が長くなった彼らを短期雇用するプログラムにも従事した。
 
被災地でi-MiEV(アイミーブ)を運転する筆者(写真提供:河田雅史氏)

 
10年前、ザンビアで迎えた3月11日。生きること、そして生かされていることへの感謝を忘れない日となった。
 


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