うみがめ便り
~コーヒーに魅せられた人生、ネパールの丘陵地帯へ(第三章)

2026/03/25

(これまでのお話、第一章第二章
 

コーヒーは、移り変わる勤務地で、私の人生を静かに支え続けてきてくれた伴走者だ。

 

タイの首都バンコクの次は、カンボジアの首都プノンペンである。1992年5月、上司の理解を得て、同期入社組の中でも比較的早期に退職した私は、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の一員としてプノンペンに赴任した。過去の寄稿でこの件をつづらせていただいたが、「その業務開始にあたっては、各種オリエンテーションとクメール語の学習機会が提供され、(担当郡への)着任までの約一か月半の間、世界各地から同じ時期に到着した約40人とともに準備することができた(おかげで今でもクメール語による日常会話が可能である)」と記載した。

 

同じ時期に集中講義を受けていた同僚のUNV(国連ボランティア)。筆者、前列右端

 

プノンペンにおけるこの一か月の間、ベトナムと共通するコーヒー文化や食文化に触れ、その魅力に引き込まれた。例えば、ベトナムのバインミーをアレンジしたサンドイッチ(ヌンパン)や、フォーに似たヌードル(クイティウ)などである。これらの料理は、練乳入りのアイスコーヒーとの相性が抜群である。ヌンパンの場合は食べながら、クイティウの場合は食後に飲む。もちろん、今では健康維持の観点から練乳抜き、つまりアイスコーヒーをブラックでいただくことが多い。

  • カンボジアのサンドイッチ、ヌンパン
  • 暑い日や疲れた時、甘いコーヒーが身体に染みる…

1992年当時、コーヒー豆がどの産地からプノンペンに供給されていたのかを示す明確な記録はないらしいが、国内に点在するコーヒー栽培に適した丘陵地帯の多くは、依然として旧ポル・ポト派の影響下にあったであろうことを踏まえると、安定した国内生産は困難であったと考えられる。そのため、プノンペンで流通していたコーヒーは、フランス植民地時代からコーヒー栽培と消費文化が比較的定着していたベトナムから持ち込まれていた可能性が高い。

 

コーヒーの栽培技術と飲用文化は、フランス植民地時代のインドシナ地域、今のベトナムやラオス、カンボジアを含む地域に伝播した。ベトナム戦争やカンボジア内戦は、その定着や発展を一時的に停滞させたものの、終戦とともに東南アジア各地で再び広がっていった。この歴史的経緯は、同地域のコーヒー文化を理解するうえで、押さえておくべき重要な背景の一つと言えるだろう。

 

UNTACミッションを終え、うみがめはインド洋を渡り、南アフリカの国連ミッション(UNOMSA)に身を置いたが、そこでのコーヒーに関する思い出は記憶に残っていない。コーヒーに思いが至らなかった背景には、思い当たる節がある。担当地区は、当時のネルスプロイトを州都とする東トランスバール州。クルーガー国立公園を含む極めて広大な地域であったため、日々300~400キロを運転することもあり仕事は過酷だった。楽しみは週末の食事で、千円以下でフルコースを堪能できた。そんな饒奢(多様で贅沢)な食文化に圧倒されてしまったからかも知れない。

 

南アフリカの次の目的地は大学院留学中(1994~1996年)に滞在したニューヨークであった。通学路沿いや散歩の途中、主に中米や中東からの移民が経営する街中のカフェでコーヒーを飲むことが多かった。しかし、毎晩宿題に追われていた私は、もっぱら眠気覚ましに大学構内で販売されていたコーヒーを飲んだ。日中、授業の合間などに少し贅沢な気分に浸りたいときは、香りつきのフレーバーコーヒーを好んで飲んだ。大学構内にはいくつものワゴン車風の移動式販売店があり、階段脇などのスペースでコーヒーやスナックを販売していた。一番のお気に入りはヘーゼルナッツだった。香りが強すぎるとコーヒー本来の風味が損なわれてしまうので、この香り付けには確かな職人技が求められた。他のお店で注文すると、風味のバランスが崩れていることも少なくなく、当たりはずれがあった。

 

当時普通のアメリカンコーヒー(アメリカーノ)は、サイズにもよるが、恐らく1ドル50セント程度(フレーバーコーヒーは2~3ドル程度)だったと記憶している。アメリカーノとともにマフィンやドーナツを購入しても4~5ドル程度だった。しかも当時の為替レートは1ドル100円以下で、今思うと、とてもありがたい時代だった。

 

さらに、この時期、ニューヨークへも新しいコーヒー文化の波が押し寄せ、私はその目撃者となった。1994年4月、スターバックスがニューヨークに初出店したのだ。その後しばらく、「スターバックスに行ったかい?」が学生同士の挨拶のように交わされていた。しかし、「ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One)」としての意識が社会にまだ残っていた時代でもあり、「世界の中心」とも言える東京からやってきた私にとって、スタバはそれほど目新しい存在には映らなかった。

 

蛇足だが、同じ頃、まだ一般にはほとんど知られていなかった Amazon という会社が、初期のビジネスモデルを模索する中で、書店の一角に中古本を並べていた(公式な記録はないはずである)。私も含め、決して裕福ではない学生、特に留学生にとって、定価では非常に高価な教科書を手に入れられる貴重な機会を提供してくれていた。まさか、あのときの Amazon が後に世界を席巻する存在になろうとは――。そう思うと、当時の自分の眼は節穴以外の何ものでもなかった。(次章に続く)

 

 
 

 
 

この記事を書いたのは
鈴木 俊介(すずき しゅんすけ)
理事長


大学卒業後、民間企業に就職。その後国連ボランティアとしてカンボジアや南アフリカの業務に従事、様々なフィールド経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。大学院で国際開発学を学び、ミャンマーにおける人間開発プロジェクトに従事した後、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々な事業運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは表町商店街とオランダ通り。神奈川県出身。

 
 
 


 
 

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