うみがめ便り~コーヒーに魅せられた人生、ネパールの丘陵地帯へ(第五章)
前章の最後の段落で、話はグアテマラからネパールに飛んだ。2000年のことだった。
私はAMDAのネパール駐在員として赴任していた。首都カトマンズに加え、活動拠点のあるブトワール、ダマックの三か所を巡回していた。飛行機を使うこともあったが、当時は夜行バスを使うことが多かった。運転手の眠気覚ましが目的か、道中ずっと大音量の歌謡曲が流れていた。耳鳴りを伴う疲れた体で地方からカトマンズに戻ると、私は時折、王宮周辺からタメルへと続く界隈に立ち寄り、海外からの旅行者を意識した小洒落た店でコーヒーを楽しんだ。

その中の一つが「Bakery Café」である。かつて私が通っていた Durbar Marg 近くの店舗はすでに姿を消してしまったが、この会社は1991年の創業以来、聴覚障害のあるスタッフを積極的に雇用してきた。テーブルにつくと、もっぱらモモ(チベット風の餃子)と、ラッシー(ヨーグルト飲料)を注文し、最後にコーヒーをお願いした。口頭で注文しようとすると、申し訳なさそうにメニューから選び指さして欲しいとリクエストされる。逆にこちらが恥ずかしくなり、大きく頷いて指で指すと会話が成立する。この瞬間にほっこり温かくなる。そう、このお店は、MDGs や SDGs が提唱される以前から、社会貢献やインクルーシブな社会の実現に大きく寄与していたのである。
さて、知る人ぞ知る、ネパールは紅茶大国。さらに言うなら、砂糖がたっぷり入った生活習慣病を招くリスクの高いミルクティー大国である。いつしか、私は、Bakery Caféでストレートのコーヒーを注文するようになった。この店のコーヒーがグアテマラで味わった、あの仙人が焙煎したコーヒーの風味に似ていると感じるようになったからだ。最初は類似の生豆を輸入しているのだろうと思ったが、ある時、店のマネージャーらしき人物に産地を尋ねてみた。すると、意外にもネパール産だと言う。会話は終わらない。「同じコーヒー豆をどこで購入できますか?」と尋ねた。幸運にも、仕入元を教えてもらうことができ、さらに幸運なことに、その事務所はBakery Caféのお店から脇の小道を7~8分奥に入ったところにあった。
訪問してみると、小さな一軒家の事務所に一人の男性がいて、団体の長だと言う(仮に彼をP氏と呼ぶ)。私の記憶に間違いがなければ、その時P氏はその団体をNGOだと言った。否、「NGOみたいなものだ」と言ったのを聞き間違えたのかも知れない。そして「今は小規模だが、いずれネパールにコーヒー栽培を広めたい。コーヒーで農家を支援したい」と、団体設立の趣旨を説明してくれた。彼の事務所は当時焙煎された豆の直売所も兼ねていたことから、ゴールドのパッケージに入れられた500g入りの粉コーヒーを日本の事務所へのお土産用に購入した。今、当時のブランド名を明確に思い起こすことはできないが、The Everest Coffeeだったと思う。コクのあるネパール産コーヒーは事務所でも好評を得た。
少し話は逸れるが、以下、起承転結の「転」として読み流していただきたい。その当時、ネパールではネパール共産党毛沢東主義派による武装闘争が激しくなり、また、政党間、民族間、労使間の対立も複雑に絡み合い、全土ではなかったものの、若年層や労働者も巻き込み、局地的な示威行動、武力衝突が頻発していた。そのため、急な幹線道路の封鎖や、夜間の外出禁止令も珍しくなかった。事業地からカトマンズへの夜間移動が妨げられたことが何度もあった。そしてその後も、ネパールにおける内戦は激しさを増し、不急の渡航ははばかられ、しばらく私の足も遠のいた。
2004年、まだ内戦の最中ではあったが、小康状態を迎えたネパールにおいて、私はJICAの調査チーム(保健分野)に参加する機会を得た。当時、丘陵地から山岳地にかけての地域は紛争の影響をまともに受け、母子保健をはじめとする保健状況は悪化していた。そして、2000年代前半には、移民労働者、性産業従事者、注射薬物使用者などの特定集団においてHIV感染の拡大リスクが極めて高くなっていった。なぜなら、2006年まで続いた紛争は、労働人口の国外流出を加速したからだ。特にインドおよび中東諸国への出稼ぎが顕著であった。このような移動性の高さと、渡航前後の不十分な予防啓発と脆弱な検査体制とが相まって、国外感染した労働者が帰国後(または一時帰国中)に感染を国内へ持ち込んだと指摘されていた。現地調査でも、保健施設への訪問やインタビューなどからそのことが概ね裏付けられたため、私はこの深刻な課題の解決に少しでも寄与するため、AMDAネパール支部とともにプロジェクトを実施するための計画書を立案し、JICAの草の根パートナー事業に申請した。ネパール子ども病院があるブトワール市から丘陵地を北西へ向かった場所に位置するグルミ(Gulmi)郡を主な対象地とした。出稼ぎ労働者数が多く、また幹線道路上に性産業の現場が点在していたからだ。将来的には、グルミとブトワールの中間に位置するパルパ(Palpa)郡、さらにグルミ郡に隣接するシャンジャ(Syangja)郡などの保健行政とも、連携が期待される内容となっていた。
現地調査が実施され、その結果をもとに感染拡大防止対策として有効な処方箋が描かれたプロポーザル「ネパール西部丘陵地帯HIV/AIDS予防事業」は、無事に採択され、実施のための契約手続きに移行する段階に入っていた。しかしながら、当該案件が実施されることはなかった。治安状況の一層の悪化を主な理由に、採択の取り下げを余儀なくされたからである(「転」はここで終わり、話はネパール産コーヒーに戻る)。
さて、現地調査が終了し、日本への帰国前、私は再びコーヒーの仕入元に立ち寄った。事務所の主はこう言った。「紛争は激化しているが、一部の地域でコーヒーの作付け面積を拡大できている。もし、パルパ、グルミ、シャンジャ周辺の農家でコーヒー栽培を希望している人がいたら紹介してくれ。希望者が複数集まれば我々が栽培方法を教えに行くから」。その時、グルミ郡からカトマンズに戻ってきた私は、少なからぬ縁を感じた。ただ、かつてタイで農産物の開発輸入に従事した私にとって、農産物の栽培と品質管理は容易に扱えるものではない、と考えていた。

私の眼はここでも節穴だった。その後10数年から20年が経過した。かつて極めて限定的だったネパールにおけるコーヒー栽培は、多くの挑戦者たちが各地で試行錯誤を行った結果、耕地面積が拡張し、多くのブランドも立ち上がった。Himalayan Javaもその一つである。内戦状態の同国において、コーヒーの栽培を丘陵地に広めたことは特筆に値する。Himalayan Javaは2000年当時、(文献によるとスペシャルティコーヒーの先駆けとして)ネパールにコーヒー文化を根付かせ、今やネパールを代表するブランドの一つとなった。後年、民間投資ファンドの支援を得て、ネパールコーヒーの輸出振興にも努めている。「たられば」はご法度であるが、もし、HIV/AIDS予防事業が実施されていれば、私の人生、もしくはアムダマインズの行く末が違ったものになっていたかも知れない。
理事長
大学卒業後、民間企業に就職。その後国連ボランティアとしてカンボジアや南アフリカの業務に従事、様々なフィールド経験を通じて国際協力業界へのキャリアチェンジを決意。大学院で国際開発学を学び、ミャンマーにおける人間開発プロジェクトに従事した後、1999年、AMDAグループ入職。ベネズエラ、インドへの緊急救援チームを率いた他、ネパール、アンゴラ、インドネシアなどで様々な事業運営に携わる。2002年、AMDA海外事業本部長就任。2007年、AMDA社会開発機構設立。理事長就任。趣味は旅行、山羊肉料理の堪能。岡山のお気に入りスポットは表町商店街とオランダ通り。神奈川県出身。

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